大関増裕終焉の地

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大関増裕が死んだのは慶応3年(1867)12月9日「王政復古」が発せられた当日の午後2時です。金丸八幡宮(那須神社)本殿の裏に金丸塚があります。その奥で銃弾に倒れました。死因は銃の暴発という事故説、藩内の反改革派による暗殺説、勤皇へ舵を切る決断を幕臣として一命をもって幕府に謝した自殺説とありますが謎です。判っている事実は増裕のこめかみを射抜いた弾は、増裕の猟銃の弾であった事だけです。公式発表は翌年3月16日病死(持病の脚気が悪化)、19日葬儀となっています。

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